終末預言を読み解く:背教の教会

終末預言

新約聖書には、教会の背教について語られた箇所が数多くあります。以下は背教に関する主な聖書箇所ですが、これを見ただけでも、新約聖書は背教の問題を重視していることがわかります。

  • 福音書:マタイ13章
  • 使徒の働き:使徒20:29~31
  • パウロ書簡:ローマ16:17~18、ガラテヤ1:6~9、2コリント11:1~15、ピリピ3:2、18~19、コロサイ2:8、1テモテ4章、2テモテ3~4章、テトス1:10
  • その他の書簡:ヘブル2:1~4、2ペテロ2~3章、ユダの手紙、1ヨハネ4:1~6
  • 黙示録:黙示録3章

この点について、シェーファー神学校のアンディ・ウッズ校長は次のように語っています。

興味深いことに、新約聖書には、信者に対して背教を警告する目的のためだけに書かれている書がある。ガラテヤ人への手紙は、ユダヤ主義者に対する警告として書かれた。コロサイ人への手紙は、コロサイの異端についてクリスチャンに警告するために書かれた。ヘブル人への手紙は、キリストの完全な啓示から離れ、ユダヤ教に逆戻りすることがないように書かれたものだ。ユダの手紙とペテロの手紙第二は、背教に対する警告として書かれている。
― Andy Woods, “The Last Days Apostasy of the Church – Part 2,” Rapture Forums (https://www.raptureforums.com/end-times/the-last-days-apostasy-of-the-church-part-2/)

Interestingly, entire New Testament books were written solely for the purpose of warning believers concerning apostasy. Galatians was written in order to warn against the Judaizers. Colossians was written for the purpose of warning Christians about the Colossian heresy. Hebrews was written to keep the audience from leaving the full revelation of Christ and lapsing backwards into Judaism. Both Jude and 2 Peter were written as warnings concerning apostasy.

背教は新約聖書の一大テーマです。この記事では、その中でも終末時代に起こる背教に関する預言を読み解いていきます。

背教は、現代の教会で起きていることを把握するために欠かせない視点

現在のキリスト教界で起きていることは、「教会の背教」という聖書預言を背景にしないと理解できません。今、キリスト教界を揺るがしているLGBTQ+の問題も、教会の背教という視点なしに語ることはできません。

「教会の背教」は、終末預言の一つであり、この世界が終わりに近付いていることを示すしるしの一つです。このしるしはキリスト教界全体で現れるものです。そのため、教会に集う人々は、知らず知らずのうちに影響を受けている可能性があります。この預言に無自覚なまま教会生活を送っていると、背教の教会に取り込まれていく可能性もあります。この流れに対抗するためには、終末時代に起こる教会の背教について、聖書はどのように預言しているのかを知ることが必要になります。

終末時代に起きる背教の預言

教会の背教はいつの時代にもありました。ただ、聖書では、特に終末時代に教会の背教が起こることを預言しています。1テモテ4:1では、使徒パウロが次のように語っています。

1  しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

また、2テモテ3:1~8には、次のようなことばがあります。

終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。 
2  そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。 3  また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、 4  人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、 5  見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。 …… 8  たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です。 

この聖書箇所は、終末時代の世相を描写したものと思われがちです。しかし、「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する」(5節)という言葉や、「信仰の失格者です」(8節)という言葉から、終末時代の教会(キリスト教徒)も含まれると考えるのが妥当です。神を信じていない人は、敬虔に見せかけることもありませんし、信仰を表明してもいないのに信仰の失格者と呼ばれることもないためです。

また、同じテモテへの手紙第二で、パウロは次のように語っています(2テモテ4:2~4)。

2  みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 3  というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、 4  真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。 

この箇所は、先ほど見た2テモテ3:1~8の続きです。2テモテ3:1の「終わりの日」の文脈から、「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代」(4節)とは、同じ終末時代を指していることがわかります。

テモテへの手紙第二は、パウロの最後の書簡とも呼ばれており、パウロの生涯が終わりに近付いている時に(2テモテ4:6~8参照)、獄中で書かれたものです(2テモテ1:8、16参照)。それだけに、パウロが最も気にかけていたこと、重要だと考えていたことについて書き記したと考えるのが当然です。その手紙の最後に書いたテーマが、終末時代の教会の背教でした。そのため、終末時代に生きるクリスチャンは、この預言のことばを重く受け止める必要があります。

MEMO
今が終末時代であることは、「今はどういう時代か ― 時のしるしを見分ける」で聖書的に解説しています。ご参照ください。

背教の定義

本論に入る前に、聖書の言う「背教」の定義をしておきます。先述のアンディ・ウッズ博士は、背教の原語であるギリシャ語「アポスタシア(動詞形はアフィステミー)」の意味を次のように説明しています。

まず背教の定義から始めよう。英語の「apostasy」は、ギリシャ語の2つの単語に由来している。最初の単語は前置詞「アポ」で、「~から離れて」という意味だ。もう1つは動詞の「ヒステミー」で、「立つ」という意味である。つまり、背教とは、「~から離れて立つ 」という意味である。背教とは、すでに知られている、あるいは以前に受け入れられていた真理から離れることを意味する。
― Andy Woods, “The Last Days Apostasy of the Church – Part 1,” Rapture Forums

Let’s begin with a definition of apostasy. The English word apostasy is derived from two Greek words. The first word is the preposition apo, which means “away from.” The second word is the verb histēmi, which means, “to stand.” Thus, apostasy means, “to stand away from.” Apostasy refers to a departure from known or previously embraced truth.

原語から定義すると、背教とは「これまで受け入れられていた真理から離れること」です。これが背教の基本的な定義です。

また、背教者とはどういう人かを定義する必要があります。背教者というと、真の信仰を持っていたが、信仰を捨ててしまった人というイメージがあります。ただ、この記事が想定する背教者は、この定義とは少し違います。この記事では、聖書学者のマーク・ヒッチコック博士による次の定義を採用しています。

背教者とは、信仰を公言しながらも、反抗したり、信仰から離れたりする人のことだ。彼らは、キリストと永遠のいのちを持つことなく、ただ信仰を持っていると公言しているだけの人々である。新約聖書では、背教者は一貫して「誤った教理」と「不品行な生活」という2つの特徴を持つ人々と位置付けられている。背教者は間違ったことを信じ、間違った行いをする。「彼らは、神を知っていると公言しますが、行いでは否定しています」(テトス1:16)とあるとおりである。
― Mark Hitchcock and Jeff Kinley, The Coming Apostasy (Tyndale Momentum, 2017)

Apostates are those who profess faith but rebel or fall away from it. They never possessed Christ and eternal life but simply professed faith. Apostates are consistently characterized by two things in the New Testament: false doctrine and ungodly living. Apostates believe wrong and behave wrong. “They profess to know God, but by their deeds they deny Him” [Titus 1:16].

この定義によると、背教者は信仰を持っていると公言しているだけで、実際には信じていません。そのため、背教者とは、救われていたが、救いを失った人ではなく、そもそも救われていない人のことです。この記事でも、この定義に基づいて、聖書で預言されている教会の背教について考えていきます。

MEMO
救いの定義については、「聖書が語る『救い』とは」を参照してください。

背教の教会の特徴

背教の預言には、背教の教会がどのようなものになるか、その特徴が記されています。

ラオディキア教会(黙示録3:14~22)

ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士によると、黙示録2~3章に出てくる7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの各教会)は、初代教会から始まる7つの時代の教会を描写しています。この立場を「歴史的預言解釈」(historical-prophetic interpretation)と呼びます。この解釈によると、最後に登場するラオディキア教会が終末時代の教会ということになります。博士は次のように語ります。

(黙示録3章)14a節にあるように、手紙の宛先はラオディキアで、「人々の支配」という意味である。ここで対比されているのは、教会に対する神の支配である。ラオディキア教会は、完全に人が支配している。それは、聖霊の臨在がなく、聖霊が教会を導くことができないからである。歴史的預言解釈によると、これは1900年代初頭に始まり、今日まで続いている背教の教会を適切に表現していることになる。
― Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah – Revised Edition 2020 (Ariel Ministries, 2020) (Kindle版)

The destination of the letter, in verse 14a, is Laodicea, which means “people ruling.” This is set in contrast to God’s ruling in the church. The Laodicean church is entirely ruled by man, for the Holy Spirit is not present to do His ministry of guiding. In the historical-prophetic interpretation, this becomes an apt description of the church of the apostasy, which began in the early 1900s and continues to the present day.

この解釈によると、現代はラオディキア教会の時代です。筆者もこの立場を採用していますので、この記事でも博士の言う歴史的預言解釈の立場に立って解説します。

黙示録3:14~20では、ラオディキア教会について次のように言われています。

14  また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。 15  わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 16  そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。 
17  あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。 18  わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。 19  わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。 20  見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 

黙示録2~3章には、7つの教会に宛てた手紙が記されています。ほかの6つの教会には何らかの称賛の言葉がありますが、このラオディキア教会だけはほめ言葉が一つもありません。この教会は、経済的には豊かだが、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」(17節)と言われています。

ここで言われている「生ぬるい信者」は、一般的には熱心な信者との対比で、熱心でない信者にハッパをかける文脈でよく使われます。しかし、フルクテンバウム博士は、ここでいう「生ぬるい」の定義を次のように語っています。

15~16節で、この教会の特徴は「生ぬるい」ことであるとされている。この箇所で「熱い」「冷たい」「生ぬるい」と呼ばれている人たちの区別は、全体の文脈から判断できる。「熱い」者とは、救われた信者のことである。「冷たい」者とは、信者ではなく、自分は信者だと主張することもない人たちだ。「生ぬるい」者とは、イェシュア(イエス)を信じていると主張するものの、新生していない人たちのことである。
― Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah – Revised Edition 2020 (Ariel Ministries, 2020) (Kindle版)

In verses 15-16, the church is characterized by lukewarmness. The distinctions between those whom the text calls “hot,” “cold,” and “lukewarm” can be determined by the overall context. Those who are “hot” are the saved believers. The “cold” are those who are not believers and do not even claim to be believers. The “lukewarm” are those who do claim to believe in Yeshua but are not born again.

この定義は、次の箇所によって裏付けることができます。

  • 18節で、信者に与えられるはずの「白い衣」(黙示録3:4~5、4:4、6:11、7:9など参照)を着ておらず、買いなさいと言われている。
  • 20節で、キリストは教会の外に立って戸をノックしている。つまり、この教会はキリストを閉め出しており、信者にキリストの御霊が内住していない。

以上の描写から、ラオディキア教会は主に救われていない「信者」で構成される教会であり、終末時代の代表的な教会の姿を表しています。「わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」と言われていることから、背教の教会の中にも個人レベルでは救われる人もいます。ただ、終末時代の代表的な教会は偽の信者(実際には救われていない人々)で埋め尽くされているというのが、この箇所が教えていることです。

MEMO
マタイ13:27~30でイエスが「毒麦のたとえ」で教えているとおり、誰が真の信者で、誰がそうでないかという判断については慎重になる必要があります。ただ、真の信者かどうかは、聖書の福音を信じているかどうかでわかります。本人であれば自分が信じていることがわかるので、自分の救いは確認できます。聖書の福音については、「聖書の語る『福音』とは」を参照してください。

悪霊の教えに心奪われる(1テモテ4:1~3)

1テモテ4:1~3には、教会の背教が起こる原因が記されています。

1  しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 2  それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。 3  彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。 

ここでは、人々が信仰から離れるのは「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ」(1節)るためだと言われています。また、悪霊の教えの例として、結婚を禁じたり、断食を命じたりして信者の持つ自由を奪う教えが挙げられています。

MEMO
悪霊の教えについては、このサイトを参照してください。

見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する(2テモテ3:1~5)

冒頭にも紹介した2テモテ3:1~5には、終末時代の信者の姿が次のように描写されています。

1  終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。 2  そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。 3  また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、 4  人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、 5  見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。 

この描写は、ラオディキア教会の「生ぬるい」人々に当てはまると考えることができます。この人々を言い表した最も端的な言葉は「神よりも快楽を愛する者」(4節)です。この箇所について、フルクテンバウム博士は次のように語っています。

それがいかに幸せで、良いもので、楽しいものであるかを理由に、そのようなすばらしい感情は主から来たものに違いないと思い込み、自分の立場や行動を擁護する人たちがいる。しかし、このことは自分が実際に悪霊に誘惑されていることを示しているにすぎない。これは何回言っても足りないことだが、もしサタンの戦略が人々を嫌な気分にさせることであるなら、サタンの欺きの計画はあまり成功しないだろうし、多くの聴衆を引きつけることもないだろう。
― Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah – Revised Edition 2020 (Ariel Ministries, 2020) (Kindle版)

There are those who will come and defend their position and their actions because of how happy, good, or joyful they make them feel, assuming that such good feelings must be of the Lord. But all this shows is that they have, indeed, been seduced by demons. It cannot be repeated often enough: Satan would not be very successful in his program of deception if his strategy was to make people feel badly. It would not attract much of an audience.

フルクテンバウム博士が言うように、何万人という聴衆が集まる集会でも、福音が宣べ伝えられず、集まっている人々がこの聖句で言われているような者であれば、背教の教会の一部となっています。

真理から耳を背ける(2テモテ4:3~4)

2テモテ4:3~4にも、現代の教会で見られるいくつかの特徴が記されています。

3  というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、 4  真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。 

背教の教会の特徴は、真理に耳を傾けないことです。そのため、間違ったことを教えます。背教の教会は、ただ間違ったことを教えているだけではありません。聖書的な教会の間でも、教えが少しずつ違っているというのはよくあることです。背教の教会の特徴は、重要な真理を間違って教えることです。これは通常「異端」と呼ばれます。ただ、近年では、異端という明確なラベルは貼られていないが、実際には異端的な教理を教えているという例が多く見られます。背教によって重要な真理がゆがめられる例として、聖書では次のようなものが挙げられています。

  • 主であるイエス・キリストを否定する(ユダ4)
  • 別のイエスを宣べ伝える(2コリント11:4)
  • 別の福音を宣べ伝える(ガラテヤ1:6~7)
  • 主イエス・キリストの贖いを否定する(2ペテロ2:1)
  • 三位一体を否定する(1ヨハネ2:22~23)
  • 受肉を否定する(2ヨハネ1:7)
  • 復活を否定する(2テモテ2:16~18)
  • キリストの再臨を否定する(2ペテロ3:3~4)

以上のような教えを語っている教会は背教の教会です。この点について、フルクテンバウム博士は次のように語っています。

このように、背教の教えはメシアの人格と働きを否定する。特に、三位一体におけるメシアの立場、神性、処女降誕による神人としての受肉、そしてメシアが地上に物理的に戻ってくることを否定する。当然ながら、こうした異端はすべて聖書の霊感を否定することが出発点となっている。人は、聖書の権威からひとたび離れると、その他の重要な教理を守ることもできなくなるのである。
― Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah – Revised Edition 2020 (Ariel Ministries, 2020) (Kindle版)

Thus, the teachings of apostasy involve the denials of the Person and work of the Messiah, especially with regard to His place in the Trinity, His deity, His incarnation as the God-Man by means of the virgin birth, and the fact that He is coming back physically. The basis of all these heresies, of course, is the denial of the inspiration of the Scriptures themselves. Once a person moves away from the acceptance of the authority of Scripture, there is no longer any safeguard for other crucial doctrines.

定義のセクションで見たとおり、背教とは「これまで受け入れられていた真理から離れること」です。このような例は、現在ではよく見られる光景になっています。

MEMO
異端的な教えについては、このサイトをご覧ください。特に、従来のキリスト教とは違う「新しい教え」および「異端研究」のセクションをご覧ください。

まとめ

聖書的に見ると、現代はすでに背教の教会の時代に入っています。そのため、「教会の背教」という視点で現代の教会を眺め、身の処し方を決める必要があります。この流れは全体的な流れなので、受け身でいては流される可能性があります。流される先は、大患難時代の世界統一宗教です。

2テサロニケ2:10では、終末時代に人々が滅びるのは「自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです」と言われています。聖書が何を語っているのか、ぜひご自分で読み、確かめてください。

参考資料

5 COMMENTS

桑原義門

「背教」の要件についての丁寧な解説をありがとうございました。
単純であり、複雑でもある教会の有り様に、信者は流され、見分けることを諦めそうになる局面に立たさらるかもしれません。
それでも
聖書への真摯な取り組み、
主への素直な悔い改めと信頼が
信者を支えますね。

背教の本論を扱われた今、そろそろ信者にとって重要な聖書翻訳における記載について解説されてはいかがでしょうか。

“だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず『背教』が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。”
テサロニケ人への手紙 第二 2章3節(第三)

この翻訳は本当に「背教」で良いのかどうか明らかにするべき時が来ていると小職は強く感じております。

お働きに豊かな祝福がありますように。

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kanrisha kanrisha

桑原様
コメントありがとうございます。2テサロニケ2:3の「背教」については解説が必要だと私も思います。背教について扱ったこの記事で言及しなかったのも、別に取り扱う必要を感じていたためでした。また記事を書きましたらよろしくお願いいたします。

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岡田 万ほ

私達の信仰のありかたを問われています。今日の教会が聖書が一巻して語らている神様を愛し自分を愛し隣人を愛しなさいとの御言葉に従順したクリスチャン生活をしているでしょうか~

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新田弘子

クリスチャンコモンズのお働きに心から感謝しています。
収集し、翻訳し、発信してくださる情報は、単なる最先端の情報ではなく、字義通りの正しい聖書解釈に固く立ち、佐野様ご夫妻が当事者として主の細い(狭い)道を歩いておられる信仰の実だと思います。
旧約時代、神様が語れと仰ったことをそのとおりに語り続けた預言者の使命にも通じるお働きに敬意を表します。
大きな励ましと希望も頂いています。

5/7㈰の夜、ある教会の礼拝メッセージタイトル「死後にも希望がある」に胸騒ぎのようなものを感じて視聴致しました。やはり「セカンドチャンス」のことでした。
慄然とした内容の詳細を記すことは控えますが、まさしく「別の福音」(ガラテヤ1:6~7)だと思いました。
未邦訳『The Footsteps of the Messiah 』の翻訳完成を期待し待望んでいます

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kanrisha kanrisha

新田様、コメントをありがとうございます。大きな励ましを受けました。

セカンドチャンス論は今も広がっているようですね。セカンドチャンス論者はローマ1:19~20をどう解釈しているのか聞きたいものです。

19  神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。 
20  神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。 

『The Footsteps of the Messiah』の翻訳は前々からしたいとは思っているのですが、かなりの分量なので今に至るまで実現しておりません。ただ、部分的にでも翻訳できるといいなとは思っています。

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