イスラエルに関するよくある誤解(3)パレスチナ難民の問題を生み出した責任はイスラエルにある

パレスチナ難民

この記事は、事実や史実に基づいて、イスラエルに関する誤解を解いていくシリーズの第三回目です。

イスラエル・パレスチナ紛争の焦点の一つはパレスチナ難民の問題です。住んでいた土地を追われ、難民キャンプに身を寄せているパレスチナ人をどうするのかという問題です。一般に、パレスチナ難民の問題を生み出したのも、いまだに解決していないのもイスラエルに責任があると言われます。そのため、長年虐げられてきたパレスチナ難民がイスラエルに無差別テロを仕掛けて武力闘争を行うのも無理がないという論調をよく見かけます。

しかし、歴史的な事実を追っていくと、パレスチナ難民が発生した責任は、基本的にはアラブ側にあることがわかります。一般にはこのように認識されていないと思いますが、以下の5つの事実を見ていくと、一般的な常識とは違う側面が見えてきます。

  1. パレスチナ難民はアラブ諸国がイスラエルに侵攻したことで発生した
  2. パレスチナ難民は自主的な避難とアラブ人指導者の指示で発生した
  3. ユダヤ人はアラブ人にイスラエルにとどまるように呼びかけていた
  4. イスラエルはパレスチナ難民の問題を早期に解決しようとした
  5. パレスチナ難民と同時期にほぼ同数のユダヤ難民が発生していた

この5つの事実を以下に詳しく見ていきましょう。

MEMO
なお、パレスチナ人とはパレスチナ出身のアラブ人という意味です。そのため、このシリーズではパレスチナ人とアラブ人を置き換え可能な言葉として用いることがあります。パレスチナ人の定義については第一回の記事をご参照ください。

1. パレスチナ難民はアラブ諸国がイスラエルに侵攻したことで発生した

最初に確認しておく必要があることは、アラブ連盟が国連パレスチナ分割案(1947年)を受け入れてパレスチナにアラブ人国家が誕生していれば、パレスチナ難民は発生していなかったということです。その場合、パレスチナ人はパレスチナ・アラブ国家の国民となっていました。これは忘れがちですが、重要な事実です。しかし、アラブ側がパレスチナ分割案を拒否し、1948年5月にイスラエルに宣戦布告をして第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)が起こった結果、パレスチナ難民が発生しました。

MEMO
第一次中東戦争が起きた後もイスラエルにとどまったアラブ人も多数いました(16万人)。こうしたアラブ人は難民とはならず、イスラエル国民となりました。イスラエルがユダヤ人と同様にアラブ人にも国籍を与えたためです。現在、イスラエルのアラブ人人口はイスラエル全体の約20%を占めています。

パレスチナ難民は、第一次中東戦争をきっかけとして発生したものです。戦争が起きた当初の1948~1949年に発生したパレスチナ難民の数は、次のように見積もられています。

  • 国連調停官の算定:総数47万2千人(支援を要する者36万人)
  • イスラエル政府の公式算定数:52万人
  • パレスチナ側の算定:90万人1

こうした何十万人という難民は、戦争によって発生しました。アラブ側が国連案を受け入れていれば発生していなかったはずの難民です。

MEMO
イスラエル政府による1949年の国勢調査では、イスラエル国内に居住するアラブ人は16万人となっています。戦争前の1947年には、同じ地域に合計80万9,100人のアラブ人が住んでいました。そのため、パレスチナ難民の最大数は65万人程度になります。そう考えると、国連調停官とイスラエルの算定数が実情を表しているようです。2

2. パレスチナ難民は自主的な避難とアラブ人指導者の指示で発生した

ユダヤ人がアラブ人をパレスチナの地から追い出したとよく言われますが、誤解です。ごく一部のアラブ人住民が、イスラエル軍の補給路上にあるなどの理由で強制退去を命じられていますが、ごくわずかなケースにとどまっています。アラブ側の在ベイルート・パレスチナ研究所の研究報告、ムーサ・アラミ著「パレスチナの教訓」(1949年10月『ザ・ミドルイースト・ジャーナル』)では、パレスチナ難民の大半は追放されたのではなく、難民の68%は「イスラエル兵の姿を見ることもなく、現地を離れた」と言われています。3

自主的に退避したパレスチナ難民

1948年に第一次中東戦争が始まる前に、一部のアラブ人は戦争を予期して国外に脱出していました。最初、約3万人の裕福なアラブ人が近隣のアラブ諸国に逃れました。その後、ユダヤ人とアラブ人が混在する町に住む裕福でないアラブ人が、親戚や友人を頼ってアラブ人だけの町に移動しています。

この状況を見て、ヤッファのアラブ紙『アズ・サリ』(1948年3月30日付)は、テルアビブ近郊のアラブ人村民が「『村を放棄』することでわれわれの名誉を失墜させた」と嘆いています。4

また、ヨルダンのアラブ軍司令官、ジョン・バゴット・グラッブは「戦争の脅威が迫る前から、村々が放棄されていることがよくあった」と語っています。5

パレスチナ全土にパニックが広がるにつれ、アラブ人の流出が止まらなくなり、イスラエルが独立を宣言するまでに20万人以上が退避したと言われています。6

アラブ側指導者に従って退避したパレスチナ難民

また、多くのアラブ人は、アラブ人指導者の指示に従って退避しています。難民問題の専門家で歴史家のベニー・モリスは次のように語っています。

地域によっては、アラブ側指揮官が、村民に作戦目的のため地域の無人化を命じ、あるいは降伏不可を命じた。この時期エルサレムのすぐ北とガリラヤ湖南方(ガリラヤ地方南部)では半ダース以上の村が、このような命令の結果、放棄された。7

ハイファに駐在していた米国総領事のオーブリー・リッピンコットは、1948年4月22日付で、地元のムフティ(イスラム教指導者)を中心とするアラブ人指導層が「すべてのアラブ人に市外に退去するように求め、多くのアラブ人が実際にそうした」と記しています。7

イラクのヌリ・サイード首相は、第一次中東戦争に際して次のように宣言しています。

われわれはこの国(訳注:イスラエル)を銃で粉砕し、ユダヤ人が避難する場所をすべて消滅させる。アラブ人は戦闘が収まるまで妻子を安全な場所に避難させる必要がある。

We will smash the country with our guns and obliterate every place the Jews seek shelter in. The Arabs should conduct their wives and children to safe areas until the fighting has died down.8

ニューヨークを拠点とするレバノン紙『アル・ホーダ』(1951年6月8日付)では、ハビブ・イッサ記者が次のように記しています。

アラブ連盟のアッザーム・パシャ事務総長は、パレスチナとテルアビブを占領することは軍事演習と同じくらい簡単なものだとアラブの人々に請け負った。……パシャは、アラブ軍がすでに前線に派遣されており、ユダヤ人が土地と経済発展のために費やした数百万もの金は、造作もなくすべて戦利品になると語っていた。……パレスチナのアラブ人には、侵入してくるアラブ軍の銃で殺されてしまわないように、土地、家、財産を捨てて、近隣の友好国家に一時的に滞在するよう、同胞としての忠告が与えられた。

“The Secretary-General of the Arab League, Azzam Pasha, assured the Arab peoples that the occupation of Palestine and Tel Aviv would be as simple as a military promenade… He pointed out that they were already on the frontiers and that all the millions the Jews had spent on land and economic development would be easy booty, for it would be a simple matter to throw Jews into the Mediterranean….Brotherly advice was given to the Arabs of Palestine to leave their land, homes and property and to stay temporarily in neighboring fraternal states, lest the guns of the invading Arab armies mow them down.”9

先述のベニー・モリスの計算によると、アラブが攻撃を開始した第一段階で2~30万人のアラブ人が流出したとされています。モリスは「アラブ人を追い出したり、脅して退去させるようなシオニストの政策はなかった10」と証言し、次のように結論付けています。

パレスチナ難民問題は、戦争によって生まれた。意図して生じたのではない……パレスチナ内外のアラブ側指導部が、恐らく脱出を助長した。11

アラブ人によるアラブ軍批判

パレスチナ自治政府のマハムード・アッバス大統領自身も、上記の事実を認めてアラブ軍を批判しています。

パレスチナ人に郷土からの退去を強制した末、ユダヤ人が居住していたゲットー同様の牢屋にぶち込んで放置した12

シリアの元首相ハリド・アルアズムも、1972年に出した回顧録で、難民問題の全責任はアラブ側にあるとし、次のように述べています。

1948年以来、難民の帰還を求めているのは我々である……一方、彼らを退去させたのも我々である……我々が、招き寄せ、退去するように圧力をかけて圧迫し、アラブ難民に災厄をもたらした13

3. ユダヤ人はアラブ人にイスラエルにとどまるように呼びかけた

一方、戦争遂行上必要な一部の例外を除いて、イスラエル側の政府方針は、アラブ人を追放するのではなく、イスラエルにとどまるように説得することでした。

パレスチナ・ユダヤ人議会(Assembly of Palestine Jewry)は1947年10月2日に次のような声明を出しています。

われわれは平和を保ち、(ユダヤ人とアラブ人の)双方にとって有益な協力関係を確立するために全力を尽くす。今ここで、このエルサレムから、アラブ諸国に対して、ユダヤ人社会および建国予定のユダヤ人国家と力を合わせて、肩を並べて共に働こうと呼びかけなければならない。われわれの共通の利益と、主権平等の下での平和と進歩のために。

We will do everything in our power to maintain peace, and establish a cooperation gainful to both [Jews and Arabs]. It is now, here and now, from Jerusalem itself, that a call must go out to the Arab nations to join forces with Jewry and the destined Jewish State and work shoulder to shoulder for our common good, for the peace and progress of sovereign equals. 14

1948年5月14日に発表されたイスラエルの独立宣言でも、パレスチナアラブ人に対し、イスラエルにとどまり、新しい国家で対等な市民となるよう呼びかけています。

理不尽な侵略の中にあっても、イスラエル国家はアラブ系住民に対し、平和の道を守り、国家発展の一翼を担うよう呼びかける。もちろん、平等で完全な市民権と、あらゆる機関や政府組織で正当な代表権が認められることが前提である。……われわれは、すべての近隣諸国と国民に、平和のため、隣人として手を差し伸べ、万人の共通の利益のために、独立したユダヤ人国家との協力を呼びかける。

In the midst of wanton aggression, we yet call upon the Arab inhabitants of the State of Israel to preserve the ways of peace and play their part in the development of the State, on the basis of full and equal citizenship and due representation in all its bodies and institutions….We extend our hand in peace and neighborliness to all the neighboring states and their peoples, and invite them to cooperate with the independent Jewish nation for the common good of all.15

ユダヤ人とアラブ人が混在して暮らす町、ハイファのユダヤ労働評議会も次のような声明を出しています。

これまでわれわれは、われら共通のまちハイファで一緒に暮らしてきた。恐れるな。自らの手で自分の家を破壊しないでもらいたい。……退避は不要である。自分で重荷を背負う必要もない。自ら悲劇を作り出すことはしないで欲しい。……この君たちのまちでもあるハイファでは、君と家族にドアがいっぱい開かれている。仕事、生活そして平和のドアが開いているのだ。16

ゴルダ・メイヤ
ゴルダ・メイヤ

この時、後に第5代首相となるゴルダ・メイアは、初代首相のベングリオンの命令でハイファに派遣され、アラブ人に町にとどまるように説得しています。ゴルダ・メイヤは自身の回顧録で当時のことを次のように記しています(少し長いですが当時の状況がわかるので引用します)。

 私たちがアラブ人を残酷に扱ったと読んだり聞いたりするたびに、血が煮えたぎる思いがする。1948年4月、私はハイファの海岸に何時間も立ち、文字通りハイファのアラブ人たちに「出て行かないでください」と懇願していたからだ。その光景は忘れられそうにもない。
 ハガナー(訳注:イスラエル国防軍の前身)がハイファを占領したばかりの頃で、アラブ人たちはすでに逃げ始めていた。アラブ人指導者は、それが最善の道だと雄弁に語っていたし、英国が気前よく何十台ものトラックを用意していたからだ。ハガナーが何を言っても、何をやっても無駄だった。バンに拡声器を積んで大声で訴えても、アラブ人居住区にビラをふんだんに撒いても(「恐れないで! あなた方は、ここから出て行くことで貧困と屈辱を味わうことになる。あなた方のものであり、私たちのものでもあるこの町にとどまってほしい」とアラビア語とヘブライ語で書かれていた)、何の役にも立たなかった。このビラには、ハイファのユダヤ人労働者評議会が署名していた。
 当時、部隊の指揮を執っていた英国の将軍、ヒュー・ストックウェル卿の言葉を借りるとこういう状況だった。「アラブ人指導者が最初に町を出て、その後人々が殺到してパニックになり、この流れを止める者はいなかった」。アラブ人は何があっても出て行くと決意していた。数百人が車で国境を越えたが、一部は海辺で船を待った。ベン・グリオンは私を呼び、「すぐにハイファに行って、ハイファに残っているアラブ人が適切な待遇を受けられるように取り計らってほしい。また、海辺にいるアラブ人に戻ってくるようにも説得してほしい。何も恐れることはないということを心底納得してもらう必要がある」。私はすぐに現場に駆けつけた。海辺に座り、アラブ人たちに家に戻るよう懇願した。しかし、返ってきた答えはひとつだった。「何も恐れることはないはわかってはいるが、行かなくてはならんのです。また戻ってきます」。アラブ人が出て行ったのは、私たちを恐れたからではなく、アラブの「大義」に対する裏切り者とみなされるのを恐れたからだと私は確信していた。とにかく精根尽き果てるまで呼びかけたが、無駄だった。

Whenever I read or hear about the Arabs whom we allegedly dealt with so brutally, my blood boils. In April, 1948, I myself stood on the beach in Haifa for hours and literally beseeched the Arabs of that city not to leave. Moreover, it was a scene that I am not likely to forget. The Haganah had just taken over Haifa, and the Arabs were starting to run away — because their leadership had so eloquently assured them that this was the wisest course for them to take and the British had so generously put dozens of trucks at their disposal. Nothing that the Haganah said or tried did any good — neither the pleas made via loudspeakers mounted on vans nor the leaflets we rained down on the Arab sections of the town (“Do not fear!” they read in Arabic and Hebrew. “By moving out, you will bring poverty and humiliation upon yourselves. Remain in the city which is both yours and ours”). They were signed by the Jewish Workers’ Council of Haifa. To quote the British general, Sir Hugh Stockwell, who was in command of the troops then, “The Arab leaders left first, and no one did anything to halt what began as a rush and then became a panic.” They were determined to go. Hundreds drove across the border, but some went to the seashore to wait for boats. Ben-Gurion called me in and said, “I want you to go to Haifa at once and see to it that the Arabs who remain in Haifa are treated properly. I also want you to try to persuade those Arabs on the beach to come back. You must get in into their heads that they have nothing to fear.” So I went immediately. I sat there on the beach, and I begged them to return to their homes. But they had only one answer: “We know that there is nothing to fear, but we have to go. We’ll be back.” I was sure that they went, not because they were frightened of us, but because they were terrified of being considered traitors to the Arab “cause.” At all events, I talked myself blue in the face, and it didn’t help.17

一方、ユダヤ人と共にイスラエルにどどまったアラブ人は、約束通りイスラエル国籍が与えられ、ユダヤ人と同じ権利が保証されました。憲法(基本法)では、すべての国民に職業選択の自由が保証されており、アラブ人の中でも国の重責を担う人がたくさんいます。たとえば、イスラエルでは次のようなアラブ人がいます。

  • イスラエルで最も由緒のある銀行(Bank Leumi)の会長はアラブ人(Haj Yehia)。
  • 最高裁裁判官の一人はアラブ人(George Karra)。イスラエルの元大統領モシェ・カツァブの強姦容疑に対して有罪判決を下した裁判官でもある。
  • イスラエル国防軍の士官や警察の幹部。
  • イスラエルでは、医師はアラブ人の方がユダヤ人よりも多い。

アラブ人には選挙権と被選挙権も保証されています。2023年11月現在、10人のアラブ人がクネセット(イスラエル議会)の議員となっています。

4. イスラエルはパレスチナ難民の問題を早期に解決しようとした

イスラエルは、難民が発生した直後の1949年に、アラブ側に10万人のパレスチナ難民の受け入れを申し出ました。残りの難民はアラブ諸国で受け入れることを期待してのことです。また、難民の銀行口座の凍結解除や、失った土地の補償金の支払いなども提案しています。しかし、申し出を受けるとイスラエルを国家として認めることになると考えたアラブ側は、提案をすべて却下しました。18

5. パレスチナ難民と同時期にほぼ同数のユダヤ難民が発生していた

イスラエル・パレスチナ紛争ではパレスチナ難民のことがよく取り沙汰されますが、実はアラブ諸国では同じ時期にユダヤ難民も発生していました。

ユダヤ難民の発生

第一次中東戦争の結果、アラブ諸国ではパレスチナ難民とほぼ同数のユダヤ難民が発生していました。ユダヤ難民は、1948~1972年の期間に合計82万人発生しています19

MEMO
ユダヤ難民発生の背景については第二回記事「イスラエルに関するよくある誤解(2)イスラエル建国までユダヤ人はアラブ人と平和的に共存していた」をご参照ください。

1948年1月の時点で、世界ユダヤ人会議のスティーブン・ワイズ議長は、ジョージ・マーシャル米国務長官に次のように訴えています。

中東と北アフリカ(パレスチナを除く)に住む80万人から100万人のユダヤ人は、パレスチナ分割をめぐる聖戦に駆り立てられたイスラム教徒の手によって、「最大の滅亡の危険」にさらされている。……すでに実行されている、また今後予定されている暴力行為は、明らかにユダヤ人の絶滅を目的としており、ジェノサイドである。これは国連総会の決議で定められた人道に対する罪に当たる。

Between 800,000 and a million Jews in the Middle East and North Africa, exclusive of Palestine, are in ‘the greatest danger of destruction’ at the hands of Moslems being incited to holy war over the Partition of Palestine … Acts of violence already perpetrated, together with those contemplated, being clearly aimed at the total destruction of the Jews, constitute genocide, which under the resolutions of the General Assembly is a crime against humanity. 20

人口交換という現実的な解決

パレスチナ難民が発生した当時、現実的な問題解決の方法はありました。パレスチナ難民とユダヤ難民との交換です。

人口交換は、1923年にはギリシャとトルコの間で、1947年にインドとパキスタンの間で行われたことがある、紛争解決の手段として実績のある方法です。別の国といえども同じ民族、宗教、文化の社会に移住する人口移動なので、現実的な解決方法であると言えます。

アラブ諸国には、流出した何十万人というユダヤ人に代わる労働力として、パレスチナアラブ人を受け入れるという選択肢がありました。実際に、1950年にイラクの首相であったムザヒム・エル=パチャーチは次のように語っています。

「イスラエルのアラブ人またはパレスチナ・アラブ難民と交換することはできないのか。われわれはこの問題を研究すべきである」(1950年3月号ミドル・イースタン・アフェアーズ「事実と統計」第1巻第3号)21

また、アラブ系イスラエル人弁護士で、パレスチナ民族評議会(PNC)のメンバーでもあるサブリ・ジェリスは次のように語っています。

ユダヤ人は、アラブ諸国から追放されたり排除されたりしたユダヤ人を吸収した。アラブ人もパレスチナ(アラブ)人をその領域内に受け入れ、問題を解決せねばならない。22

しかし、そうした機会があったにもかかわらず、アラブ諸国はパレスチナ難民の受け入れを拒み、難民キャンプに留め置くことを選択しました。イスラエルを武力で倒せば、パレスチナ難民をパレスチナに戻すことができると考えていたのかもしれません。しかし、歴史はそのようになりませんでした。そのため、パレスチナ難民が大量に発生し、今も未解決のままとなっています。一方、イスラエルはユダヤ難民を吸収し、今の繁栄につながっています。

まとめ

パレスチナ難民の窮状が訴えられる場合、非難の矛先はいつもイスラエルに向けられます。しかし、難民の問題が発生した原因も、問題を解決する鍵も、総合的に判断すればイスラエルではなく、実はアラブ側にあります。また、アラブ諸国で起こった迫害や追放で何十万というユダヤ難民が発生したことは完全に忘れ去られています。

次回の記事では、パレスチナ難民の問題が70年経った今も解決しない理由について解説したいと思います。

参考資料

  • ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)
  • ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(下)』(サイマル出版会、1988年)
  • アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)
  • “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees)

カバー写真の出典:https://milanoinmovimento.com/

  1. アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)p.109

  2. “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees#a)

  3. アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)p.109

  4. “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees#c)

  5. 同上

  6. 同上

  7. アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)p.103 2

  8. Myron Kaufman, The Coming Destruction of Israel, (NY: The American Library Inc., 1970), pp. 26-27. Quoted in “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees)

  9. “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees)

  10. アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)p.104

  11. 同書p.107

  12. アラン・ダーショウイッツ著(滝川義人訳)『ケース・フォー・イスラエル 中東紛争の誤解と真実』(ミルトス、2010年)p.109

  13. 同書p.108

  14. “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees)

  15. 同上

  16. ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)p.21

  17. Golda Meir, My Life, (New York: Putnam, 1975), p. 279 (https://archive.org/details/mylife00meirrich/page/278/)

  18. Terence Prittie, “Middle East Refugees,” in Michael Curtis, et al., The Palestinians, (NJ: Transaction Books, 1975), p. 52. Quoted in “Myths & Facts – The Refugees,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/myths-and-facts-the-refugees)

  19. “Fact Sheet: Jewish Refugees from Arab Countries,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/jewish-refugees-from-arab-countries)

  20. 同上

  21. ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)p.125

  22. 同書p.215

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パレスチナ難民の問題はなぜ解決しないのですか? - 聖書ニュース.com

[…] 第一次中東戦争は、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトが始め、後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣しています。こうしたアラブ諸国は、第一次中東戦争で難民が発生する原因をつくった当事者と言うことができます(記事「イスラエルに関するよくある誤解(3)パレスチナ難民の問題を生み出した…」を参照)。ところが、広大な土地に広がるアラブ諸国の中で(下図参照)、パレスチナ難民に門戸を開き、集団的に市民権を与えてきたのはヨルダン一国のみです(他のアラブ諸国も個人ベースで市民権を与えるケースはあります)。兵士は送っても難民は受け入れないというのがアラブ諸国の一貫した態度です。 […]

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