終末預言を読み解く:ユダヤ人の民族的救い

終末預言

イエスが二千年前に地上に来られた時、ユダヤ人の大部分はイエスをメシア(救い主)として受け入れませんでした。そして、その状態は今に至るまで続いています。しかし、聖書では、ユダヤ人がメシアであるイエスを拒絶している状態は終わり、すべてのユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れ、救われる時が来ると預言されています。

使徒パウロは、ローマ11:25~27で、ユダヤ人(イスラエル人)が将来に民族的に救われることを次のように預言しています。

25  兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、 26  こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。 27  これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。 

将来にユダヤ民族全体が救われることを預言した聖書箇所はここだけではありません。そのほかにも、旧約聖書を中心に、ユダヤ人の民族的救いを預言した箇所があります。そうした箇所を見ていき、この預言を詳しく見ていくことにします。

いつ起きるか

ユダヤ人の民族的救いはいつ起こるかについて、旧約聖書のヨエル2:28~32には次のような預言があります。

28  その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。 
29  その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。 
30  わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。 
31  【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。 
32  しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。【主】が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、【主】が呼び出す者がいる。」 

文脈から、28節の「すべての人」は「すべてのユダヤ人」を指しています(32節参照)。28節ですべてのユダヤ人に聖霊が注がれることが約束されており、32節で【主】の御名を呼び求めるすべてのユダヤ人の救いが約束されていることから、ユダヤ人の民族的救いが預言されています。

この箇所では、ユダヤ人の民族的救いが起こるしるしの一つに「【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」ことを挙げています。「【主】の大いなる恐るべき日」とは、大患難時代を指す聖書の用語です。大患難時代とは、キリストが再臨する直前の7年間を指し、この時代に人類は歴史上で最も過酷な世界を生きることになります。ユダヤ人の民族的救いは、この大患難時代と関係していることが上記の箇所からわかります。

MEMO
ヨエル2:28~32は、使徒ペテロがペンテコステ(イスラエルの七週の祭り)の日に朗読した預言でもある(使徒2:16~21)。しかし、この預言は使徒の時代に成就したわけではない。ペテロがヨエル2:28~32を引用したのは、「聖霊が注がれた」一点のという共通点のためであって、それ以外の詳細は一致していない。たとえば、ヨエル2:28~32では、異言(学んだことのない他国の言語で話すこと)については何も語っていない。

ユダヤ人の民族的救いが起きる時期がピンポイントでわかる預言は、次のマタイ23:37~39です。

37  エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。 
38  見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。 
39  わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」 

これはイエスがエルサレムに向けて語ったことばで、エルサレムはユダヤ民族の象徴と考えることができます。39節では、ユダヤ民族がイエスに「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と呼びかける時まで、イエスを見ることはないと言われています。逆に言うと、ユダヤ民族がイエスに「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と呼びかけて救いを体験する時に、イエスが再臨されると言うこともできます。つまり、ユダヤ人の民族的救いが起こるのは、キリストの再臨の直前ということになります。

どのように起きるか

旧約聖書では、ユダヤ人の民族的救いがどのように起きるかについても詳しく預言されています。

1. 大患難時代にユダヤ人に対する大迫害が起こる

ゼカリヤ13:7~9では、大患難時代のユダヤ人に対する預言として次のように言われています。

7  剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。 
8  全地はこうなる──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 
9  わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」

8節では「三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」とあります。これは、迫害によってユダヤ人の三分の二が亡くなり、三分の一が残されるという預言です。この大迫害の後に、ユダヤ人はメシアであるイエスの名を呼び、民族的に救われることになります。

2. 大患難時代の最後の3日間

ホセア6:1~6:3では、イスラエルが民族的に悔い改め、救われることになる3日間が預言されています。

1  さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。 
2  主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。 
3  私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。 

1節で、ユダヤ人は悔い改めて主に立ち返り、2節では、2日間の悔い改めの後、3日目に救われることが預言されています(「御前に生きる」)。これは大患難時代最後の3日間に起こることの描写です。

ここでユダヤ人が悔い改める罪は、ユダヤ人のメシア(救い主)として来てくださったイエスを拒絶してきたことです。この悔い改めの告白が、イザヤ53:1~9に記されています。

1  私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。 
2  彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。 
3  彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。 
4  まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 
5  しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 
6  私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 
7  彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 
8  虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。 
9  彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。 

この箇所は、イエスの生涯の預言にもなっています。ユダヤ人は、イザヤが預言していたとおりにイエスが自分たちの罪を背負い、死んでくださったことを悟り、みずからの罪を悔い改めます。

ゼカリヤ12:10~14、13:1では、この悔い改めを行う場面が次のように描写されています。

10  わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。 
11  その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。 
12  この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。 
13  レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。 
14  残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。 
1  その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 

この箇所は、主(ヤハウェ)のことばです。10節で、ユダヤ人は「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て…激しく泣く」と言われています。「自分たちが突き刺した者」は十字架上のイエスの描写であるし、それが「わたし」と言われていることから、これは明らかに三位一体の神であるイエスを指した言葉です。つまり、ユダヤ人は主であるイエスを信じず、十字架にかけてしまったことを悟り、その罪を悔い改めるのです。この時に、ユダヤ人は民族的救いを体験することになります。

まとめ

ユダヤ人の民族的救いが起こることは、聖書で明確に預言されています。この預言の成就に向けて、時代は動いています。

参考資料

  • Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of Messiah: Revised 2020 Edition (Ariel Ministries, 2020)
  • Arnold G. Fruchtenbaum, “The Book of Joel” (Ariel Ministries Digital Press)
  • Arnold G. Fruchtenbaum, “The Day of Pentecost and the Birth of the Church: Acts 2:1
    -47” (Ariel Ministries Digital Press)

写真:Azriell (写真はイメージです)

2 COMMENTS

池澤千尋

 終末以前にイエスを拒否したままで死んだユダヤ人には救いの機会はないのですか?

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kanrisha kanrisha

終末以前になくなったユダヤ人の方にも、福音を聞いてイエスを信じる機会はありましたので、救いの機会は与えられています。実際に、初代教会から今に至るまで、ユダヤ人の中にも「レムナント」と呼ばれるキリストを信じる少数の信者がいます。

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