イスラエルに関するよくある誤解(2)イスラエル建国までユダヤ人はアラブ人と平和的に共存していた

移民キャンプ「ベイト・リッド」のイエメン系ユダヤ人の子ども(1950年7月)

この記事は、事実や史実に基づいて、イスラエルに関する誤解を解いていくシリーズの第二回です。

イスラエルに関する誤解の一つに、「シオニストがイスラエルを建国するまで、ユダヤ人はアラブ人と平和的に共存していた」というものがあります。つまり、ユダヤ人とアラブ人はずっと平和的に共存していたが、イスラエルが建国されてからユダヤ人とアラブ人の間に争いが絶えなくなったという主張です。これはよく聞く主張ですが、アラブ世界のユダヤ人の歴史を紐解くと大きな誤解または嘘であることがわかってきます。

MEMO
「シオニスト」とは、聖地イスラエル(パレスチナの地)にユダヤ人国家を再建しようとする「シオニズム運動」を支持する人々のことです。この目的は1948年のイスラエル建国で一応の達成を見ました。今ではイスラエルを支持する人々のことをシオニストと呼ぶことがあります。

このような見方はアラブ人指導者がよく語ってきたものです。たとえば、サウジアラビアのファイサル国王(1906年~1975年)は、1973年11月の米キッシンジャー特使との会見で次のように語っています。

ユダヤ国家がつくられる前には、アラブ人とユダヤ教徒は良き関係にあり、これを損なうごとき問題は存在しなかった。1

また、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長も次のように語っています。

われわれはユダヤ教徒に反感を抱いているのではない。その逆である。われわれはセム族であり、イスラム教徒、ユダヤ教徒そしてキリスト教徒は、これまで平和と友愛の中で共存してきたのである。2

2人の発言はどちらも「われわれが問題にしているのはユダヤ人ではなく、シオニズムだ」という主張です。そのため、シオニズムに基づいて建国されたイスラエルを解体する必要があるという論法です。この論法は今でもソーシャルメディアなどでよく見かけますが、反ユダヤ主義という批判をかわすための一種のトリックです。史実を紐解いていくと、ファイサル国王やアラファト議長の主張は事実ではないことがわかります。

ユダヤ難民の存在

「ユダヤ人はアラブ人と平和的に共存していた」という主張の矛盾は、ユダヤ人難民の存在を考えるとわかります。1948年のイスラエル建国時に発生したのはパレスチナ難民だけではありません。パレスチナ難民と同時に、数十万人というユダヤ難民が発生しています。アラブ諸国で暮らしていたユダヤ人が、国から追放されたり、迫害で国外に脱出したりして難民となったのです。これはパレスチナ難民の問題を論じる上で欠かせない重要な視点ですが、よく見過ごされている事実です。

1948年の時点で、アラブ世界には85万人を超えるユダヤ人がいました。しかし、イスラエルの建国以降、アラブ諸国では数十万人ものユダヤ人が国を逃れ、多くがイスラエルに移住してます。実際に、イスラエルは1948年~1951年に26万人ものユダヤ人を国内に迎え入れています3

一方、同じ時期(1948~1952年)に米国からイスラエルに帰還したユダヤ人の数は、わずか1,809人(カナダを含む)です4。当時、米国には450万~500万人5のユダヤ人が暮らしていたにもかかわらずです。このような数字を見ると、もしアラブ人とユダヤ人が平和的に暮らしていたのであれば、これほど大量のユダヤ人がアラブ諸国を出てイスラエルに移住する必要があったのか、理由がわかりません。また、米国には現在も活気のあるユダヤ人共同体が残っていて、700万人以上のユダヤ人が暮らしているのに対し、アラブ諸国のユダヤ人人口は減り続け、2019年の統計では12,700人ほどしか残されていません(イランを含む)6

MEMO
よく誤解されることですが、イランはアラブ諸国には含まれません。イランはアラブ人ではなくペルシャ人の国です。同様にトルコはトルコ人の国ですので、トルコもアラブ諸国には含まれません。

ユダヤ人がなぜアラブ諸国を脱出してイスラエルに移民することになったのかという理由は、アラブ世界のユダヤ人の歴史を見ていくと見えてきます。

アラブ世界のユダヤ人の歴史

アラブ諸国は基本的にイスラム教国です。そのため、アラブ諸国のユダヤ人がどのような生活をしていたかは、イスラム社会でユダヤ人がどういう立場に置かれていたかを見ていく必要があります。

イスラム社会のユダヤ人

イスラム教国では、ユダヤ教徒は「ディンミー」と呼ばれる被保護民として生きることになります。イスラム教徒の保護を受ける民ということです。ディンミーは、保護を受ける代わりに「ジズヤ」という人頭税を納める必要があります。このジズヤは、コーラン第9章「悔悟」29節に根拠があります。

アッラーも終末の日も信じず、アッラーと使徒が定めた禁止事項を守らない者たちと戦え。また啓典を受けていながら真理の宗教を受け入れようとしない者たちに対しては、彼らが進んで服従し、完全にへりくだって税(ジズヤ)を納めるまで戦え。
― Surah 9:29 (https://quran.com/9?startingVerse=29)

Fight those who do not believe in Allah and the Last Day, nor comply with what Allah and His Messenger have forbidden, nor embrace the religion of truth from among those who were given the Scripture, until they pay the tax, willingly submitting, fully humbled. (Dr. Mustafa Khattab, the Clear Quran)

この箇所で「真理の宗教」と言われているのはイスラム教のことです。また、「啓典を受けていながら真理の宗教を受け入れようとしない者たち」と言われているのは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を指します。同じ一神教であるユダヤ教徒とキリスト教徒は、ジズヤを納めれば被保護民のディンミーとしてイスラム社会で生きることが許されるという規定です。ちなみに、それ以外の多神教信者は強制改宗の対象となるという意味でもあります。「コーランか剣か」という言葉は、根拠のないものではないということです。また、「進んで服従し、完全にへりくだって税(ジズヤ)を納めるまで」と言われていますので、ディンミーといえども、ジズヤを納めてもイスラム教徒に服従して生きることが求められます。ディンミーが「二級市民」と言われる理由はここにあります。

MEMO
ディンミーの制度は現在のイスラム諸国では採用されていませんが、コーランの教えは変わりません。そのため、イスラム国(IS)のような原理主義的組織では、キリスト教徒に対してジズヤの徴収を行うと発表していました。また、エジプトでは1980年代にジズヤの復活が議論されています。7

ただし、ディンミーの中でも、ユダヤ人は弱い立場に置かれていたようです。近代トルコ学の祖アルミニウス・バンベリーは、イスラム教諸国で暮らすユダヤ人について次のように語っています。

世界広しといえど、この国々にいるユダヤ人ほど悲惨、無力、かつ哀れな存在を知らない。……哀れなユダヤ人は、イスラム教徒、キリスト教徒、そしてブラフマン(バラモン)からさげすまれ、罵りをうけ、痛めつけられている。5

イスラム教世界ではキリスト教徒もディンミーでしたが、キリスト教国の支援があったのでユダヤ人よりも状況はいくらかましだったようです。しかし、ユダヤ人国家というものが存在しないユダヤ人は事情が違いました。

MEMO
現在では、ユダヤ人はイスラム教国にはほとんど残っていないので、迫害を受ける対象は主にキリスト教徒となっています。キリスト教団体「オープン・ドアーズ」は、キリスト教徒が迫害を受けている国のランキングを毎年発表しており、イスラム教国が常に上位を占めています。2023年のランキングでは、ソマリヤ、イエメン、エリトリア、リビア、ナイジェリア、パキスタン、イラン、アフガニスタン、スーダンのイスラム教国9か国がトップ10にランキングされています8

以下では、ユダヤ人がアラブ諸国でどのように生きていたかを国別に見ていきます。少し長くなりますが、バンベリーが言うような状況は一部の国ではなく、アラブ諸国全体で基本的に共通していたことを確認していきます。

サウジアラビア

ユダヤ人は、紀元前からアラビア半島に定住しており、新約聖書の使徒2:11などにも言及があります。7世紀頃まで、アラビア半島のユダヤ人は繁栄しており、ユダヤ教に改宗するアラブ人も多くいたほどです。その中には支配者階級もいて、たとえば紅海に面したヒムヤル王国では、王や支配者階級がユダヤ教に改宗していました。また、イスラム教第二の聖地として知られるメディナの町に最初に定住したのもユダヤ人でした。この時代を見ると、確かにユダヤ人とアラブ人は平和的に共存していたと言えるでしょう。ただ、7世紀にイスラム教が誕生して以降は状況が違ってきます。

イスラム教がアラビア半島を席巻して以降、サウジアラビアの地のユダヤ人共同体は消滅していきました。預言者ムハンマドはメディナやハイバルといったユダヤ人の町を攻め取って住民を殺害していったためです。また、預言者ムハンマドの後継者であるウマルは、ムハンマドの教えに従って「アラビア半島に2つの宗教を共存させず」という布告を出し、残っていたユダヤ教徒もすべて追放しました。この布告の効果は後世まで残っていて、サウジアラビアにユダヤ人が入国することは近年まで禁止されていました。

ファイサル国王は「アラブ人とユダヤ教徒は良き関係にあり、これを損なうごとき問題は存在しなかった」と語りましたが、サウジアラビアには共存するユダヤ人はいませんでした。ユダヤ人がいなかったので、「問題は存在しなかった」のかもしれません。

ヨルダン

現在ヨルダンがある地域には、古代イスラエルの一部が含まれています。そのため、ユダヤ人共同体が古くから存在していました。ローマにイスラエルが滅ぼされて以降も、この地にはユダヤ人がいました。紀元7世紀にアラビア半島から追放されたユダヤ人が身を寄せたのも、ヨルダンの地にあるユダヤ人共同体でした。

このようにヨルダンの地域には古くからユダヤ人共同体がありましたが、今ではヨルダンに一人のユダヤ人も暮らしていません。現在のヨルダンは、1922年に英領パレスチナがヨルダン川を境に東西に分割された時の東側、「トランスヨルダン」が元になっています。このトランスヨルダンを将来アラブ人の国にすることが決まって以降、ユダヤ人の入植は禁止され、ユダヤ人共同体は消滅していったのです。ヨルダンは1946年に英国から独立し、1954年に国籍法を制定しますが、そこではユダヤ人は国民になれないことが明記されていました(「ユダヤ人以外のパレスチナ人は国籍を取得できる」という規定)。

ヨルダンも、サウジアラビアと同様にユダヤ人と共存することを拒否した国です。

MEMO
ヨルダンは1994年にイスラエルと平和条約を結んでいますので、その意味ではユダヤ人国家と共存することを選んだ国になっています。しかし、今でもヨルダンにユダヤ人がいない状態は変わっていません。

イエメン

イエメンはアラビア半島の国ですが、ユダヤ人共同体が長く存在していました。一説では、ユダヤ人がいたのは紀元前586年の第一神殿の破壊の頃にまで遡るとも言われています。しかし、イスラエル建国後、イエメン在住ユダヤ人のほぼすべてである5万人がイスラエルに脱出しています。当時、イエメンではユダヤ人に対する虐殺(ポグロム)が起きており、当地のユダヤ人を救うために1949年と1950年にイスラエルへの空輸作戦が実行されています(「魔法の絨毯」作戦)。2016年の時点で、イエメン国内にはユダヤ人が50名ほどしか残っていません 6

イエメンのユダヤ人社会は、アラブ諸国の中でも劣悪な反ユダヤ環境だったと言われています。19世紀中頃にイエメンを訪れたヤコブ・サビールは、イエメンのユダヤ人の状況を次のように観察しています。

「数千年の歴史を持つ当地のユダヤ人たちは、いまでは下層民の地位にあり、上層の民によって迫害されている。上層の民は、自身を聖なる篤信の民と考えるが、一方ではきわめて野蛮で残忍な人びとである」9

イエメンでは、あまりにも過酷な扱いに耐えかねて、改宗の道を選ぶユダヤ人も出ています。ランバン(偉大なる宗教指導者)と呼ばれたモーゼス・マイモニデス(1135~1204年)は、1172年にイエメンのユダヤ人社会に向けて信仰を捨てないようにと励ます手紙を書いているほどです。18世紀には、太守がアラビア半島からユダヤ人を一掃することに決めて改宗か追放かの選択を迫り、圧倒的多数のユダヤ人が町を離れたという事例もあります。

1762年にイエメンを訪れたデンマーク系ドイツ人の探検家ガルシュテン・ニイブールは、次のように記しています。

「サヌア(訳注:イエメン最大の都市)のまちから完全に隔離されて、ユダヤ人の集落がある。そこではユダヤ人二千人が、ひどい侮辱を受けながら暮らしている」10

また、1931年にイエメン第二の都市アデンに移り住み、1951年にアデン総督となった英国人サー・トム・ヒッキンポーサムは、次のように書き記しています。

アラブ人はユダヤ人を社会的に劣る存在と考え、ユダヤ人がそれをわきまえていれば何もトラブルはないし、これからも二つの共同体は共存できるとしている。しかし、ユダヤ人がユダヤ人たることを忘れ、自分たちも人間であることを自覚し始めると、難しいトラブルが起きるのが通例である。11

この言葉に、イスラム教国でのディンミーの二級市民としての立場が要約されています。

イエメンのユダヤ人は、1967年の六日戦争(第三次中東戦争)の後にも反ユダヤ暴動の犠牲となり、残っていたユダヤ人も英国の手助けで脱出しています。そのため、先述のとおり、イエメンのユダヤ人共同体はほぼ消滅しています。

イエメンから「魔法の絨毯」作戦でイスラエルに逃れてきたユダヤ人
イエメンから「魔法の絨毯」作戦でイスラエルに逃れてきたユダヤ人(出典:www.jewishvirtuallibrary.org)

イラク

イラクはバビロン捕囚の地で、紀元前6世紀から多くのユダヤ人が暮らしていました。そのため、イスラエル建国前の1947年時点でも、イラクには13万人以上のユダヤ人がいました。しかし、イスラエル建国後、1949~52年だけでも12万3千人以上が国外脱出するか、強制追放されています。

イラクでもユダヤ人は差別の対象で、9世紀には以下のような制限を課すディンミー差別法が導入されています。

  • 衣服への黄色い布きれの着用
  • 重い人頭税
  • 居住地の制限

これは多くのイスラム教国でも採用されていた制限です。ドイツのナチスはユダヤ人に対して衣服に黄色い星を付けるように命じましたが、すでにイスラム社会では大昔から同じような習慣があったわけです。

イラクの地では、紀元1000年のユダヤ人の土地収用、1333年の迫害とシナゴーグ破壊、1776年のバスラ虐殺など、ユダヤ人に対する迫害がたびたび行われました。また、18世紀にはトルコ人の支配下で過酷な反ユダヤ政策も採用されています。

イラク北部のモスル在住の英国副領事ウィルキー・ヤングは、1909年1月の報告で次のように書き記しています。

人口比で10対1と多数派を占めるイスラム教徒は、ユダヤ、キリスト教徒に対し、奴隷を扱うと同じ態度で接している。主人と奴隷の関係といってよく、分をわきまえている限りは存在を許すという態度である。

20世紀に入っても、イラクのユダヤ人の生活は向上していなかったことがわかる報告です。

1932年にイラクが独立をした頃は、ナチスドイツが席巻していた時代でもありました。この時には、バグダッドにナチの拠点ができあがっており、ユダヤ人への迫害に拍車がかかりました。

1930年代にはパレスチナ問題をきっかけとするデモが頻発し、1941年にはユダヤ人の虐殺が起こります。この時には、警察が暴徒と一緒になってユダヤ人を襲撃し、数百名の死者、千戸以上の家屋や店舗の略奪、破壊という被害が出ています。

ユダヤ人が国外に出ることは禁止されていましたが、このような迫害により、イスラエルを目指して密出国するユダヤ人が後を絶ちませんでした。この流れを止めることはできなかったイラク政府は、1950年に財産没収と国籍の永久剥奪という条件付きで、ユダヤ人の国外移住を合法化します。イラクのユダヤ人のほとんどは、このような条件を付けられても、イラクを去り、イスラエルに移住する選択をしました。

イラクから難民としてイスラエルに逃れてきたユダヤ人
イラクから難民としてイスラエルに逃れてきたユダヤ人(出典:www.jewishvirtuallibrary.org)

エジプト

エジプトはユダヤ人とはゆかりの深い国です。イスラエルの民がカナンの地に来るまではエジプトにいましたし、紀元前の昔からアレキサンドリアなどに大きなユダヤ人共同体がありました。イスラエルが建国された1948年の時点でも、エジプトには7万5千人のユダヤ人が住んでいました。しかし、現在では100名ほどのユダヤ人しか暮らしていません(2019年の統計)。

19世紀前半のエジプトの状況を詳しく調べたエドワード・レーンの報告『近代エジプトの風俗と習慣 ― 1833~35年』では、次のように言われています。

彼ら(ユダヤ人)は、イスラム教徒から実にひどく忌み嫌われ、軽蔑されている。……キリスト教徒に比べ、ユダヤ人ははるかに憎まれている。……コーランや予言者マホメットを尊敬しないようなことを少しでもいうと、それを聞き咎めたイスラム教徒が嘘で固めた告訴をすることがあり、そのため死刑になったユダヤ人が多い……ユダヤ人は汚れた動物だから、その血で剣が汚れると考えるので、エジプトではユダヤ人を斬首せず、ぶら下げることにしている。

また、19世紀のエジプトではユダヤ人に対する「血の暴動」が何度も起きています(1844年、1869年、1870年~1892年の間に6回)。

1926年制定の国籍法では、アラブ人やイスラム教徒に国籍を限定すると定められ、ユダヤ人は排除されました。また、1947年制定の企業法で、国籍のないユダヤ人は雇用の対象からも外れることになります。

当時の状況は、エジプトの新聞『アクハル・サアフ』に掲載された一人のイスラム教徒の投書からもうかがい知ることができます。投書では次のように記されています。

エジプトの人間はほとんどが、イスラム教徒のエジプト人のなかに肌の白い者もいることを知らないようです。電車に乗るたびに、乗客たちが私を指さし、ユダ公だ、ユダ公だと言うのです。そのため、殴られたことが何度あるかわかりません。そこでお願いですが、私の写真を新聞にだしてもらい、この者は名をアドハム・ムスタファ・ガレブといい、ユダヤ教徒にあらず、と証明していただきたいのです。

1948年のイスラエル建国後には、ユダヤ人に対する暴動で1週間に150名が死亡または重傷を負っています。そのような状況の中で、1948年には2万人以上のユダヤ人がエジプトを国外脱出します。エジプトからイスラエルに移住したユダヤ人の一人、ヤーコブは次のように語っています。

よく、アラブ諸国のユダヤ人はヨーロッパほど悪くなかったといわれます。しかし、私に言わせれば、それは神話の一種です。アラブ人は600万人のユダヤ人を殺さなかった。機会がなかっただけの話です。12

また、シュロモという帰還者も次のように語っています。

 ユダヤ人だから殴られるというのは、日常の決まりみたいなもので、避けるわけにはいかんのです。……集団としてのユダヤ人はやはり他の集団と区別されている。同じではないのです。シオニズムがつくりだしたものではない。ずっと昔から存在しているのです。
 ユダヤ人殺戮は、2年間隔で起きていました。自分が何か悪いことをしたわけではないが、殺される。いってみれば、チフスやマラリアのようなものです。疫病に襲われるのと同じです。13

モロッコ

マグレブと呼ばれる北アフリカの地域(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)には、数十万というユダヤ人が定住していました。これには、北アフリカには紀元前からユダヤ人共同体があったことと、スペインやポルトガルを追放されたユダヤ人が地理的に近いマグレブに移住したという要因があります。しかし、1948年以降、30万以上のユダヤ人がイスラエルに移住し、今では数千人のユダヤ人しか残っていません。

モロッコでもユダヤ人に対する迫害はありました。その中でも、1032年にフェズという町でユダヤ人6000人が殺された事件がよく知られています。それ以上に規模の大きな迫害が起こったのは、1146年に政権を取ったイスラム教の狂信派アルモハデスの時代です。イブン・トゥーマルトが創立したアルモハデスと呼ばれるイスラム帝国は、ユダヤ人にディンミーの地位を与えることを拒否し、改宗を迫りました。それを拒否したユダヤ人は、フェズで10万人が殺害され、マラケシュという町では15万人が殺されたと言われています。目撃証言は次のように記録されています。

「アルモハデスは市内に入ると……直ちにユダヤ人をイスラム教に改宗させようとした。最初は話し合いで説得したがらちがあかず……結局、新しい指揮官がもっと効率的な手段で問題を一気に解決した。十五万人が殺され……生き残りは改宗」した。14

この時、先述のマイモニデスは、生き延びるために改宗したふりをするようにとユダヤ人にアドバイスしています。その後も、1640年にアルカーダと呼ばれる厳しい弾圧がありました。

フランス軍の情報将校シャルル・ド・フーコーは、「モロッコ偵察 ― 1883~84年」という記録で次のように書き記しています。

「彼らは世のなかで最も不運な人たちである。……ユダヤ人はすべて、身も心も藩主の所有物である。……彼は、イスラム法の支配のもとで、個人財産の一部として所有される」15

モロッコでは、1948年6月に反ユダヤ暴動が起き、その直後にユダヤ人3万人が国外脱出してイスラエルに向かっています。1956年にモロッコが独立すると、さらに7万人が脱出してイスラエルに帰還し、最終的にはモロッコから合計約25万人がイスラエルに移住しています。現在残っているユダヤ人の数は数千人程度と言われています。

アルジェリア

1816~28年まで駐アルジェ領事を務めた米国のウィリアム・シェラーは、『アルジェ寸描』でアルジェリアのユダヤ人について次のように記しています。

ユダヤ人は恐るべき迫害に苦しんでいる。……彼らの命は無に等しい。……あるのは、卑しい扱いと迫害そして暴力である。16

近代には反ユダヤ暴動が頻発し、1881年にトルムセン、1883年にオラン、1882年、1897年、1898年にはアルジェで発生しています。1898年の暴動では、アルジェリアの主なユダヤ人社会がすべて襲われています。

1948年時点で14万人いたユダヤ人は、結局12万5千人がフランスへ、数千人がイスラエルに流出しました。現在では、数百名のユダヤ人が残っているのみです。

チュニジア

1470年にチュニスを訪れたフランドル地方の貴族アンセルム・アドンは次のように記しています。

……ユダヤ人に自由はない。彼らは、重い……税を払わねばならない。彼らは、ムーア人(訳注:マグレブのイスラム教徒)とは違う特別の衣服をまとっている。もしそれを着用しないと、石打ちの刑に処せられる。17

1948年の時点でチュニジアに10万5千人いたユダヤ人は、5万がイスラエルに移住し、ほぼ同数がフランスなどの国に移住しました。2019年の時点では千人ほどしか残っていません。

リビア

リビアのユダヤ人も、モロッコと同様、狂信派アルモハデスの迫害に遭っています。当時のユダヤ人、アブラハム・ベンビットは次のように語っています。

何年も、イスラエルの民に対する迫害、虐待、貧苦が続く。人々は居留地から去り、死ぬべき者は死の道をあゆみ、剣にかかるべき者は剣のサビと消えた。18

1785年のアル・グルジ・パシャの支配時代には、迫害により数百名のユダヤ人が殺害されています。1941年と42年にはベンガジのユダヤ人2600人が資産を略奪された上で砂漠の強制収容所に送られ、500名以上がそこで死んでいます。

リビアには、1948年の時点で3万8千人のユダヤ人がいました。しかし、イスラエル建国後にユダヤ人難民3万7千人がイスラエルに国外脱出しています。この時、ユダヤ人は持っていた資産一切を残して逃げ去っています。これはリビアに限ったことではなく、その他のアラブ諸国でも同様です。ユダヤ人は財産を置いて、国外へ出ることが禁じられていても、すべてをなげうってイスラエルに帰還しています。

シリア

13世紀のシリア人、アブド・アル=ラヒム・アル=ジャウバリは、ユダヤ人について次のように語っています。

この(ユダヤ人)集団は、神の創造物のなかで最も呪われた存在である。最も邪悪な性格を持ち、不信心と呪いに深く根ざした者たちである。19

この発言のようなユダヤ人に対する偏見が、時に暴力を生むことになります。1840年に起きたダマスカスの血の暴動も同じでした。この年に経済不況が訪れ、シリアの状況が悪化する中で、ユダヤ人が人の血を祈祷に使っているというデマが流されます。ヨーロッパでよく起きていた「血の中傷(blood libel)」と同じです。この扇動に乗って、ユダヤ人に対する暴動が起こったのです。トルコ帝国は勅令で「彼らに対してなされた告発は……まったくの中傷である。……ユダヤ民族は保護され守られる」20とユダヤ人の無実を宣告しましたが、このようなことは19世紀前半に4回も起きました。1936年にも、同様に暴動でユダヤ人社会が襲われています。

シリアでは、1917年の時点でユダヤ人は3万5千人いました。それが第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて数万人が国外に脱出し、1943年には3万人、1947年には1万3千人にまで減っていました。さらに1947年に反ユダヤ暴動がユダヤ人の虐殺(ポグロム)に発展し、ユダヤ人のイスラエルへの帰還に拍車をかけました。現在シリアに残っているユダヤ人は百人程度だと言われています。

パレスチナ

パレスチナのユダヤ人も例外ではありませんでした。1491年に、ボヘミアの聖地巡礼者がエルサレムの印象を次のように記しています。

「キリスト教徒の数は多くない。しかし、ユダヤ人はたくさんいる。イスラム教徒はユダヤ人をいろんな手を使って迫害している。キリスト教徒とユダヤ人は、放浪乞食に似つかわしいと考えられる衣服をまとって、エルサレムの市中を行き来している。
 ユダヤ人は、ここが約束の聖地であると考え、口にだしてもそう言う。また、ここに住むユダヤ人は、外地居住の同胞から聖だと考えられている。イスラム教徒はこのような事情を知っているのである。イスラム教徒は彼らにいろいろな迫害を加えるが、そんな不幸や問題にもかかわらず、ユダヤ人は聖地を去ろうとしない」(マーチン・カブタニク『エルサレムへの旅』1491年)21

時代を下っても、聖地のユダヤ人に対する迫害はありました。1839年に、英国のヤング領事は次のように報告しています。

「ユダヤ人に対する暴力と迫害を耳にしない日は、まずない。やるのは主に兵隊であるが、ユダヤ人の家に押し入り、断りもなく物品を”借り”ていく。返却することはまずない。……
 ユダヤ人は、飼い主のいない哀れな犬と同じで、行く手をさえぎったといっては足蹴にされ、泣き声をあげたといっては殴られる。そうされてもユダヤ人は逆らわない。あとが恐ろしいからである。文句を言えば必ず復讐されるので、黙って耐える。ユダヤ人は幼い時から、社会的に無力であることをたたき込まれて成長する。彼の心は恐怖と不信感に包まれている。彼は自分が信用されていないことを知る。そして、頼るものも信用するものもないまま、自分だけで生きていくのである」(パーマーストン宛ヤング報告、1839年5月25日付)22

アラブ人とユダヤ人の関係が悪化したのは19世紀後半に始まったシオニズム運動が原因だと言われることがあります。しかし、そのような主張は間違っています。上記は一例ですが、それまでにも迫害の報告や虐殺事件が多数あります。

また、1929年にはヘブロンでアラブ人によるユダヤ人虐殺事件が起こっています23。ヘブロンには古くからユダヤ人が暮らしていましたが、この事件でユダヤ人共同体はヘブロンから消滅しました。この時、同様の事件により、ヨルダン川西岸地区からユダヤ人がほぼいなくなっています。そのほかにも、パレスチナの地では数々のユダヤ人に対する虐殺や殺害事件が起こっています24

MEMO
以上の情報は、ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)(下)』(サイマル出版会、1988年)を参考にしています。本書でピーターズは、一次史料を数多く引用し、アラブ諸国にいたユダヤ人の状況を詳しく記しています。また、パレスチナ紛争の構図が明快に解き明かされているので、一読をお勧めします。
ただ、残念ながら本書は絶版になっており、現在では古書としてしか入手できません。再版が切望される書籍です。

まとめ

現在のイスラエル国民の約半数は、アラブ諸国を逃れてイスラエルに来た人々とその子孫です。アラブ諸国を逃れる必要があったのは、ユダヤ人にとって過酷な環境があったためです。もしアラブ人の住民と平和に暮らせていたら、何世紀にもわたって住み続けてきた国を捨ててイスラエルに帰還するユダヤ人はもっと少なかったでしょう。旧約聖書の時代に、バビロン捕囚から解放され、約束の地に戻ってエルサレムと神殿を再建してよいと言われた時も、実際に戻った人は少数派だったのです。ほとんどのユダヤ人がアラブ諸国を出ていったのは、アラブ人と平和に暮らしてなどいなかったからです。

結論

以上のように考えると、ヨーロッパのユダヤ人だけでなく、アラブ諸国のユダヤ人も、迫害を逃れることができるユダヤ人国家の建設を必要としていたことがわかります。ユダヤ人国家の建国を目指したシオニズムは、問題を作った原因ではなく、すでにある問題を解決するためのものだったのです。

アラブ人が「われわれが問題にしているのはユダヤ人ではなくシオニズムだ」と言う時、アラブ世界の歴史を振り返る必要があります。ユダヤ人国家がない状態で、アラブ世界のユダヤ人がどのような暮らしをしていたかを知れば、それはユダヤ人を支配する側に立って権力を振るっていた人々の勝手な理屈であることがわかります。

ユダヤ人はディンミーとして保護はされていましたが、イスラム教徒と平等であることはできない二級市民でした。また、その立場でさえ、時の為政者や国民感情に左右されるもろいものであったことは歴史が証明しています。

2023年10月7日に起きたハマスによるユダヤ人虐殺は、イスラム社会で生きるユダヤ人の過去の歴史と現在がつながった瞬間であると言えます。イスラエルの国連大使が「ネバー・アゲイン(もう二度と)」という文字の入った黄色い星を付けて国連の安全保障理事会に出席した25のも、ハマスによる虐殺が過去のユダヤ人虐殺の歴史を想起させるものであったためです。その虐殺の歴史は、ヨーロッパだけでなく、アラブ世界でも存在したのです。

参考資料

  • ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)
  • ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(下)』(サイマル出版会、1988年)
  • “Jewish exodus from the Muslim world,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_exodus_from_the_Muslim_world)

ページ先頭の写真:Seymour Katcoff(パブリックドメイン)。移民キャンプ「ベイト・リッド」のイエメン系ユダヤ人の子ども(1950年7月)。

  1. ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)p.54

  2. 同書p.54

  3. “Jewish exodus from the Muslim world,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_exodus_from_the_Muslim_world)

  4. “Immigrants to Israel: 1948-1952,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/immigrants-to-israel-1948-1952)

  5. “Total Jewish Population in the United States,” Jewish Virtual Library (https://www.jewishvirtuallibrary.org/jewish-population-in-the-united-states-nationally) 2

  6. “Jewish exodus from the Muslim world,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_exodus_from_the_Muslim_world) 2

  7. “Jizya,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Jizya)

  8. “World Watch List 2023” (https://www.opendoors.org/en-US/persecution/countries/)

  9. ジョーン・ピーターズ著(滝川義人訳)『ユダヤ人は有史以来(上)』(サイマル出版会、1988年)p.65

  10. 同書p.65

  11. 同書p.69

  12. 同書p.169

  13. 同書p.170

  14. 同書p.82

  15. 同書p.86

  16. 同書p.89

  17. 同書p.92

  18. 同書p.106

  19. 同書p. 97

  20. 同書p. 98

  21. 同書p. 272

  22. 同書p.289

  23. “1929 Hebron massacre,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/1929_Hebron_massacre)

  24. “List of killings and massacres in Mandatory Palestine,” Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_killings_and_massacres_in_Mandatory_Palestine)

  25. 時事通信社「イスラエル大使、安保理で胸にダビデの星 ユダヤ虐殺想起、ハマス非難訴え」(https://news.yahoo.co.jp/articles/8076c7a0bb3bf2b6d0ebfe69c5b163a6a972e611)

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